まだ恋も始まらない
日曜日よりの使者
適正量を大幅に超えて摂取したアルコールが、カブルーの記憶を霞ませていた。足元はふらつき、都内ではついぞ見かけることのなかった見慣れぬローカルチェーンの居酒屋の看板もぼんやりと滲んで見える。
カブルーが働いているのは、名実ともに業界トップの企業だ。名門大学を卒業した彼は、就職活動の末にこの企業を選び、数年前、期待の新人として入社した。
しかし、入社からたった数年で、カブルーは自分が想像していた華やかなビジネスの世界とは異なる現実に次第に気づき始めた。
最初に違和感を抱いたのは、あるプロジェクトの帳簿を確認していたときだった。数字がどうも合わない。目に見えないところで、莫大な額がどこかに流れていることに気づいたのだ。
上司にそれとなく報告したものの、返ってきたのは「その辺りの数字は気にしなくていい」という淡々とした返事だった。疑問に思いながらも、部下としては上司の指示に従うのが常識だろうと、カブルーはひとまずその場を引き下がった。
しかし、それ以来カブルーに巣食った違和感が消えることはなかった。自発的に調査を進めるうちに、表向きのデータと内部のデータが一致していない部分が幾つも見つかったのだ。
担当する案件の規模が大きくなるにつれ、その違和感はますます大きくなり、やがて、会社の一部部署が不正な取引を通じて自社の利益を上乗せしているのではないかという推測へと変わっていった。
ある日、カブルーは意を決して、密かに社内のデータベースを調べることにした。不正の証拠と思しき資料から、自分の会社が複数の取引先と結託し、架空の請求を重ね、利益を横流ししているらしいことがわかった。しかも、その関係者の中には、会社の上層部や取引先の幹部らも含まれていた。
会社に入社した時の自分を振り返ると、彼はその理想の世界にいると信じて疑わなかった。しかし、目の前に広がる現実に向き合うと、その理想は薄っぺらい夢に過ぎなかったと痛感せざるを得なかった。
正義と誠実さだけで社会が回っていると思えるほど幼くはなかったから、カブルーは証拠を手にしても暫くは悩んだ。告発するか、見て見ぬふりをして自分のキャリアを守るか──。ただ、彼には一つだけ譲れない価値観があった。
どれだけ華やかな未来が待っていようと、嘘や欺瞞に塗れたものに背を向けて生きていきたくはなかった。会社の不正に対し、無力な平社員でも一矢を報いることができると信じ、カブルーは決断した。
匿名で外部の通報窓口に証拠を送り、内部告発を行った。少しでも自分の行動が社会のためになるなら、キャリアのリスクは取る価値があると考えた。だが、現実は甘くなかった。カブルーは映画の主人公などではなかったのだ。
告発からしばらくすると、彼の所属する部署に異動の話が持ち上がった。当初は上層部からの「期待を込めた転勤」だと言われたが、実態は閑職に追いやるための左遷だった。周りには「カブルーは異動先で新しいプロジェクトを任されることになった」と表向きの説明がされたが、その先で彼を待っていたのは、事務作業が中心で、会社の重要なポストからは完全に切り離された退屈な仕事だった。
告発者への対応は、表向きには「問題を調査中」だったが、実際にはカブルーのような告発者が出ないように、徹底的に排除されるシステムがすでに作り上げられていたのだった。
──と、そんなわけで、新天地での業務が明日から始まるというのにカブルーが酔いつぶれてしまったのは、昨日から続く引っ越しや手続きの諸々にかかるストレスに加えて、自己犠牲の末に失ったものへの虚しさが溢れ出したためだった。カブルーは決して蟒蛇というわけではないけれど、酒に飲まれるようなタイプでもない。
もとよりこの土地に長く居着くつもりもなく、私生活にも色々と無頓着なところのあるカブルーは、通勤の利便性だけを条件にしてアパートを選んだ。社宅という選択肢もあったが、カブルーがどういった経緯で転勤になったのかなど既に噂になっているだろうし、プライベートでも同僚と一緒というのは息苦しそうに思え、選ぶ気になれなかった。
築年数の経った木造建築の二階建てアパートは、住宅街の一角にひっそりと佇んでいる。駅から徒歩五分という好立地だが、車で入り込むにはドライビングテクニックを要するような、細く入り組んだ路地の先にある。
風雨に晒されて少し錆びた鉄製の外階段は、カブルーが階段を踏むたびにぎしぎしと音をたてた。
カブルーはふらつきながら自分の部屋の扉に辿り着いた。すっかり酔いが回り、足元がおぼつかない。ドアノブを引くと、なんの抵抗もなく開く。鍵を掛け忘れて出掛けてしまったのだろう。まあ、どうせ部屋の中には盗まれるようなものもないから、問題はないだろう。
靴を脱ぐのがやっとだ。部屋の明かりをつける気力もない。頭ががんがんと痛み始めている。
カブルーはついに限界に達した。玄関に倒れ込み、カブルーはすぐに寝息をたてはじめる──自分の腹筋の下あたりで、いかにも高そうなレザーシューズが潰れていることにさえ、気付かないままで。
月曜日雨のメロディー
カブルーは、柔らかな布の感触と、どこか懐かしい木の香りに包まれて目を覚ました。頭が重く、昨夜飲んだ酒のせいでぼんやりとしている。瞼を開けると、薄暗い天井と木製の梁が視界に入り、これが自分の部屋ではないことに不意に気付く。
「ここは……」
声に出しても、自分の声が掠れていて頼りない。記憶を辿ろうとしたが、酔っ払って玄関に入ったところから先がまるで霧の中だ。
体を起こして、部屋の中を見回す。とにかく物のない部屋だった。あるものといえばライティングデスクに、カブルーが今眠っているベッドぐらいのもので、あとは床に転がっている巨大な抱き枕ぐらいのものだ。
──と、床の抱き枕がのそのそと動き、ゆっくりと立ち上がる。どうやら抱き枕ではなく、毛布にくるまっていた人間だったらしい。ゆるくウェーブした長めの銀髪に端正な顔立ち。黒い瞳がこちらをじっと見ている。
カブルーが一瞬思ったことは二つだった。
一つ、通報されるかもしれない。
二つ、この相手と酔った勢いで同衾したのかもしれない。
「起きたか」
華奢な女性と言われたら信じてしまいそうな見た目の印象からはかけ離れた、低い声だった。どうやら酔いの勢いでやってしまった相手というわけではなさそうだ。
「昨日のことは覚えているか?」
淡々としていて、感情の起伏を感じさせない声だ。せめて怒りや困惑の感情が乗っている声であれば、カブルーもどう反応するべきか指針が立てやすかっただろう。 しかし、彼の雰囲気には苛立ちや不快感さえなく、ただありのままに、事実を確認するだけの声だった。
「あ、あの……すみません、俺、ここ……?」
カブルーは焦って状況を整理しようとしたが、声がうまく出ない。
男はゆっくりとカブルーの元へ歩み寄った。といっても、広い部屋ではないから、たった数歩移動したに過ぎない。近くなると、ますます彼の容姿が整っていることが分かる。年のころはカブルーと同じか、やや若いぐらいだろう。さっきは気付かなかったが、右目だけ瞼も開き切っておらず、焦点も合っていない。義眼のようだ。
「そこで倒れていたので中に入れておいた」
細い指が優美な仕草で玄関を指す。酔いが瞬時に吹き飛ぶ。自棄になってしたたか酔った挙句に、他人の部屋に不法侵入したうえ、三和土で行き倒れとなったらしい。さあっと血の気が引いていくのがわかる。
「本当にすみません! 俺、このアパートの二〇三号室に住んでいるカブルーといいます。昨日は酔っていて、それで、おそらく間違えてあなたの部屋に……」
カブルーは慌てて布団を跳ねのけ、立ち上がろうとするが、頭痛に足元がふらつく。男は肩を竦めてみせた。
「別にこちらは気にしていない。謝る必要はない」それから、ふと思い出したように付け足す。「二〇二号室のミスルンだ」
その声は感情を感じさせないが、不思議と冷たくもなかった。
「いや、でも……迷惑をかけたのは事実ですし、何かお礼をさせてください」
「不要だ」
ミスルンは平坦な声で断るが、カブルーは少し強引に続けた。
「俺が納得いかないんです。せめて、夕食でもご馳走させてください」
ミスルンは一瞬カブルーを見つめた。その義眼の無機質な視線が、不意にカブルーの胸をざわつかせる。
「……好きにしろ」
その言葉が同意なのか呆れなのかは判断がつかない。だが、カブルーはほっと胸を撫で下ろしながら微笑んだ。
「 どこかいい店を探しておきます。土曜日の夜は空いてますか?」
「ああ」ミスルンは諦めたようにそう応じて、続ける。「それより仕事はいいのか。今日は月曜だが」
はっとしてポケットの中からスマートフォンを取り出す。画面にひびが入っていなかった幸運に感謝しながら画面をタップすると、自分の部屋に戻って身支度を整えても勤務開始には間に合うような時刻が表示される。職場へのアクセスが楽なアパートを選んだのは、無意味ではなかったようだ。
自分の部屋に帰ったカブルーは、部屋の中を見渡した。殺風景な部屋に、いくつかのダンボール箱が積まれている。中途半端に開いたカーテンの隙間から射し込む光が、薄ぼんやりとした朝の空気を照らしている。
少しでもアルコールの気配を薄めるために、熱いシャワーを頭から浴びる。身支度をととのえ、ネクタイを締め、ジャケットを羽織る。磨き上げられた革靴を履いて、カブルーは部屋を出た。
明るいところで見ると、自分の部屋と、ミスルンの部屋のドアはかなり違っている。カブルーの部屋のドアはくすんだベージュに塗装され、経年劣化で所々ペンキが剥がれ、暗い朱色がわずかにのぞいている。何度も塗り直されているため、下の色が出てきてしまっているのだろう。扉の横には小さな釘が刺さっており、前の住人が使っていたであろう古びたプラスチック製のネームプレートがどうにかぶら下がっている。
一方のミスルンの部屋のドアは、グレーがかった落ち着いた色合いだ。ドアノブはカブルーのものと同じ材質だが、鍵穴の周りにほとんど汚れがない。扉の中央には郵便受けがあるが、蓋がしっかり閉じていて、あまり使われていないようだった。
電車に揺られながら、カブルーは窓の外をぼんやりと眺めた。都会の喧騒から離れたこの地方都市は、のんびりとした空気が漂っている。けれど、その穏やかさが今の自分には少し堪える。
「左遷ってわけじゃない、って言われてもな……」
上司は転勤を「期待の裏返し」と言ったが、実際のところは違うことぐらい、分かっている。若手ながら大規模なプロジェクトのサポートに抜擢され、手応えを感じていた矢先の異動だった。いらぬ正義感のために、プロジェクトから外され、地方の支社での勤務が決まったのだ。
「……じゃあ、どうしてこんな場所なんだよ」
小さく息を吐いて、窓に映る自分の姿を見つめる。どこか疲れた目をしている気がした。
社屋に着くと、建物の小ささに驚かされた。本社の洗練されたオフィスとは対照的に、地方支社の建物はどこか古びていて、外壁の一部には日焼けした跡が残っている。
オフィスには数十名の社員がそれぞれのデスクで仕事をしていた。誰もが長年ここで働いているベテランのように見える。新参者の若手が入る余地がどれほどあるのか。
しかし、そんなことで怖気付いても仕方ない。カブルーは努めて明るい声で挨拶をした。新天地で心機一転、張り切っている健気な若手社員という役を自らに課す。
支社への出勤初日である月曜日はあっという間に過ぎていった。仕事をするというよりは、挨拶まわりやら業務の引き継ぎやらデスク周りの整備やら事務上の手続きやらで一日が終わっていった。そうでなくとも、隣の部屋の住民に迷惑をかけ、強引にお礼を申し出た後であるから、動揺していて仕事に集中できていないのも確かではあるのだけれど。
それにしたって、本社に勤務していた頃とは比べ物にならないほどのんびりとしたペースだ。同僚どころか直属の上司でさえ、定時の三十分後には「お先に」と帰宅してしまっている。そんな中で残っていても仕方がないから、カブルーも初の支社勤務日を終えた。まだ夕方と言える時間に退勤するなんて、いつぶりだろう。
帰宅したカブルーはバスタブに浸かりながら、隣人のことを思い出す。
生活感のない男だった。大学生のようにも見えるし、老生した世捨て人のようにも思える。
この安アパートに見合わない手入れのされた家具はカブルーの目からしても高級品だったし、ミスルン自身の品のある面差しと、着古されてだるだるの服にもギャップがある。なんだか、あらゆることがちぐはぐな印象だった。
ジェントル・チューズデー
ミスルンという男は、どうにも掴みどころがない。冷たいわけではないが、どこか壁を感じる態度。だが、そんな壁を破るのがカブルーの得意技でもあった。
仕事を終えたカブルーが階段を上がると、ミスルンの部屋の前に立つ女性が目に入った。黒いジャケットにストライプのスカート、というかっちりとした装いに革製のショルダーバッグを斜め掛けしている。スマートフォンを手に、少し迷っている様子だった。
彼女は呼び鈴を何度か押しているようだったが、反応がないのか困惑した表情を浮かべていた。
「……どうかしましたか?」
カブルーは声をかけた。女性は振り返り、少し緊張した様子で答える。共有廊下の古びた蛍光灯が、ちらちらと彼女の高い鼻梁と、長く横に伸びた耳を照らす。後者はエルフの特徴だ。
「あ、あの……こちらのミスルンさんに用があって」
「留守ですかね。昨日は家にいましたけど」
その言葉を聞いて、女性は困ったように肩を落とし、耳を下げた。
「いつもこんな感じなんですよ。連絡手段もないから、心配で」
「そうなんですか。ええと、あなたはミスルンさんの……」
カブルーは少し興味をそそられた。この女性は、ミスルンとどういう関係なのだろうか。カブルーの疑問を正しく引き継いで、女性が名乗る。
「申し遅れました、パッタドルと申します。ミスルンさんとは仕事でお会いする予定なんです」
「パッタドルさん」
「ええ、美術キュレーターをしています。彼の作品をギャラリーで展示していて、少し相談があって伺いました」
「作品?」
「ええ、陶芸の……」
カブルーが首を傾げると、パッタドル女史は自分が喋り過ぎたことに気付いたようだった。はっとして、口元を手で押さえる。
「ええと、いえ、その……」
「差し支えなければ、もっと聞かせてもらえませんか?」
カブルーは大いに興味をそそられたが、さらに突っ込んで尋ねようとしたその瞬間、ミスルンの部屋のドアが静かに開いた。
「パッタドル。話をするなら、中で」
淡々とした声とともにミスルンが現れた。その姿を見たパッタドルは一瞬表情を引き締めてから、軽く会釈した。
「お邪魔します」
パッタドルが部屋に入ると、カブルーは思わずその場に立ち尽くした。彼女の、育ちが良さそうで真面目そうな雰囲気と、ミスルンの相変わらずの無表情な対応との対比が妙に印象に残った。
その夜、カブルーがシャワーを浴びていると、玄関のチャイムが鳴った。慌ててタオルを巻きつけたままドアを開けると、そこにはミスルンが立っていた。
「な、なんで……?」
「さきほどは、すまなかった」
ミスルンの問いに、カブルーは、ぽかんとする。そして、先ほどの女性を思い出す。
「パッタドルさんのことですか?」
「迷惑をかけたな」
「そんなことは……」
「それだけだ」
「あ、ちょっと待ってください!」カブルーは思わず声を上げた。「せっかく来たんですし、少し話でもどうですか?」
ミスルンは一瞬だけ考えるそぶりを見せたが、結局「遠慮しておく」と言い残し、淡々と去っていった。去り際に、カブルーに紙袋を渡してくる。礼を言う暇さえカブルーに与えることなく、ミスルンは自分の部屋へと戻っていった。
紙袋の中身を確かめると、中には、丁寧に包まれた缶入りの焼菓子が入っている。袋には小さなメモが貼ってあり、隣の部屋番号がサインのように書かれていた。
「……どういうこと?」
素っ気ない態度の割に、こういう気遣いがあるのはなんだか釣り合っていないような気がする。いや、意外と例のキュレーターからの差し入れを持て余し、隣人に押し付けているだけかもしれない。
カブルーのプライベートルームに便箋などという洒落たものはないから、付箋に礼の言葉をしたためて、ミスルンの部屋の扉についたポストに放り込んだ。
How do you like Wednesday?
水曜日の朝、カブルーは会社での仕事に追われていた。転勤先ではまだ人間関係が浅く、業務の全貌を掴むのにも時間がかかる。昼休みに差し掛かる頃、ようやく少し息をつけたカブルーはスマートフォンを取り出し、レストランの詳細を確認した。
「雰囲気もいいし、きっと気に入ってもらえるとは思うけど……」
すでにミスルンは月曜日の時点で「お前が選んだ場所でいい」と了承していたものの、どこか自信が持てない。なにせ、相手はギャラリーに作品が展示されているような陶芸家だ。美意識だって十人並みではあるまい。
信じられないことに、絶対逃せない商談の接待に使う店を予約したときよりも、初めてのデートの行き先を決めたときよりも、ミスルンのために店を選んでいる今のほうが緊張している。そのことが、なんだか擽ったい。
カブルーが帰宅する頃には、街を覆う夕焼けが徐々に深い藍へと色を変じさせてた。アパートがある通りに車の往来は少なく、狭い道路に沿って立つ街灯がぽつぽつと点灯する。薄暗く、頼りない光だ。
アパート自体は築四十年近い、いわゆる「古びた」建物だ。外壁は、建てられたばかりの頃はクリーム色だったのだろうが、長年の風雨に晒されて少し黒ずんでいる。
カブルーはコンビニの袋をぶら下げた手をポケットに入れたまま、自分の部屋の前に辿り着いた。鍵を取り出しながら隣の部屋に目をやると、彼の部屋の窓から漏れる明かりが見える。
鍵を開け、自宅に帰ってきたカブルーは雑に手洗いとうがいをすませ、ビニール袋の中身を電子レンジにかける。今のところカブルーの部屋にある唯一の家電であり、実質的なカブルーの生命線でもある。
過保護な養母は、「カブルーは可愛いから、変な人に襲われたりしたら大変だよ」などと言ってカブルーがまだ幼い頃から護身術などまで教えてくれたが、反面、炊事や洗濯といった家事については清々しいほどノータッチだった。養母自身、裕福な家に育ったためか、そういった家事はハウスキーパーに任せればいいとでも思っているふしがある。
したがってカブルーの家事スキルは彼が一人暮らしを始めた頃がレベル一であり、なお残念なことにその頃から何かと世話を焼いてくれるタイプの男女に事欠かなかったため、家事の技能はレベルアップすることなく今に至っている。
トマトソースのペンネはコンビニの新作商品らしい。美味しいに越したことはないが、食に対しては特に強いこだわりもないカブルーは大した感慨もなく平げた。
プラスチックの皿とフォークを、カブルーがゴミ箱に捨てるのと同時に、来客を告げるチャイムが鳴る。
「カブルー」
少し低いところから、黒い瞳がカブルーを見つめている。
「ミスルンさん、こんばんは。昨日はありがとうございました」
「口に合ったなら、いい」
ミスルンは短く言い、古びた本を差し出す。
「これは……?」
「陶芸に興味があるのだろう?」
ミスルンはそれだけ言うと、足早に部屋へ戻っていった。昨晩のパッタドルとカブルーのやりとりを、ミスルンはそう解釈したらしい。実際には、カブルーが興味をもっているのは陶芸というよりも、ミスルンその人についてなのだが。
カブルーが口にした些細なことを覚えていたことは驚きだったが、ミルスンがわざわざ何かを選んで渡してくれたことは純粋に嬉しい。たとえ、彼の解釈がカブルーの意図したところとは少々ずれていたとしても、だ。
その本は、どうやらミスルン自身が大事にしていたもののようだった。年季が入ってはいるが、ページの破れはなく、本の角にも折れがない。そう思うと、カブルーの手の中にある一冊の本は、ミスルンという人物のことを知るためのヒントのようにも思える。
カブルーは夕食を軽く済ませ、ソファに横たわった。いつもならテレビを流し見するのだが、今日は隣の部屋が妙に気になって仕方がない。
月曜日から会話らしい会話はしていないのに、どこか気になっている自分がいる。隣人との夕食なんて、普通はこんなに気を遣うものだろうか、と自問自答する。
「気にしすぎだな……」
自分に言い聞かせるように呟くと、そのまま本を手に取った。先ほどミスルンから借りた本だ。自分には到底理解できないような専門的な技術書だったらどうしようと思ったが、予想に反してそれは陶芸を通じて自然や人間の精神に向き合う、哲学的なエッセーだった。静かでどこか寂しげな文章が、カブルーの心に染み込んでいく。
人間と土。自然と人との交点。窯を開いてみるまで作品の出来は誰にも分からない。そういった内容が、筆者の視点から書かれている。
──器に残る歪みやひび割れは、失敗ではなく、その器だけが持つ個性だ。完璧ではないものに宿る美は、我々自身の不完全さを許す寛容の精神を教えてくれる。
本の中の一節が、カブルーの目を惹いた。その数行を何度も視線で往復する。
「失敗が個性……か」
カブルーは自嘲気味に笑う。自分の左遷も、果たして「個性」として捉えられるだろうか。考え込む彼をよそに、部屋の隅には洗いそびれたコーヒーカップが置きっぱなしだ。
優しい木曜日
カブルーは部屋で一息ついていた。仕事での疲れが残るものの、週末にミスルンと夕飯に行く約束を思い出すと、気分が少し明るくなる。
変わった人であることに間違いはないけれど、悪人とは思えない。むしろ、淡白な態度の奥に滲む柔らかさに気付かされつつある。
そういえば、そもそもミスルンは普段どんな生活を送っているのだろうか。食事の約束をした時から、彼に対する興味が増している自分に気づいていた。あの無表情で何を考えているのかわからない態度。その奥に隠れているものを知りたくて仕方ない自分がいる。
なんだか、無性に体を動かしたくなった。部屋の片隅に置いていたランニングシューズを取り出し、紐をしっかりと結ぶ。ジョギングはいい。考えながらでもできるし、好きな時間にできる。
「よし、行くか」
ドアを閉めると、ひんやりとした夜の空気が彼の頬に触れた。住宅街の静けさが広がり、遠くで犬の吠える声がかすかに聞こえる。カブルーは軽くストレッチをしてからアパートの階段を降り、走り出した。
道は狭く、街灯の光が薄暗い。住宅街を抜けると、近くの公園が見えてくる。夜遅いせいか、人影はほとんどなかった。ここまで静かだと、却って落ち着かない気分になる。
息が上がり始めた頃、公園の入り口付近でゆっくりと歩いている人影を見つけた。カブルーはその姿に見覚えがあることに気づき、スピードを緩める。
「……ミスルンさん?」
声をかけると、月明かりの下でその人物が振り返った。間違いなく、隣の部屋に住むミスルンだった。相変わらずの無表情で、目元に薄い影を落としたその顔はどこか神秘的な雰囲気をまとっている。
「カブルーか」
ミスルンは淡々と応じた。それ以上言葉を足すこともなく、また歩き出そうとする。
「こんな時間に散歩ですか?」
カブルーは横に並ぶようにして歩きながら話しかけた。
「お前こそ、夜に走るなんて意外だな」
ミスルンの声は相変わらず落ち着いていて、どこか冷ややかな響きがある。
「俺は仕事もデスクワークですから、たまには汗をかかないと、と思いまして」
カブルーは笑いながら答えたが、ミスルンの反応は特にない。それでも二人はしばらく無言で並んで歩き続けた。
公園のベンチの前でミスルンが足を止めた。月明かりに照らされた木製のベンチは昼間とは違い、闇に溶け込んで気配を消しているかのようだ。
「いつもこんな時間に散歩を?」
カブルーが尋ねると、ベンチに腰を下ろしながらミスルンは頷く。
「ああ」
ミスルンは肩をすくめただけで、それ以上は何も言わない。その無表情の奥にどんな感情が隠れているのか、カブルーにはまだわからなかったが、不思議とその沈黙が心地よく感じられた。
「そうだ、ミスルンさん。連絡先とか交換しません?」
「? 隣の部屋だろう」
「そうですけど、ほら、電話番号とか」
「電話はない」
「家電じゃなくて。ラインとかインスタとか。他にやってるSNSがあれば、こっちが合わせますよ」
ミスルンは、きょとんとしている。それから首を横に振った。カブルーを揶揄っているようにも、教えたくないから嘘をついているようにも見えない。思い返してみれば、パッタドルも「連絡をとる手段がない」とか言っていた。どうやら本当にスマホすら持っていないようだ。
「では、何か話したいことがあったらミスルンさんの家に行ってもいいですか?」
「私と? 面白い話はできないと思うが」
「そんなことないですよ。たとえば、普段はどんな風に過ごしてるんです?」
「特に何も。知っての通り、器を作ったり蕎麦を打ったり、気楽なものだ」
「どこかに工房があったりするんですか?」
「焼成には少し離れた共同の薪窯を使っているが、それ以外の作業には隣の部屋を使っている」
ミスルンは答えながら、足元の小石に気を取られたように視線を落とした。銀色の髪がふわりと揺れて、髪に隠されていた耳が一瞬だけのぞく。カブルーは目を疑った。
耳が短い。トールマンのように丸い耳であるという意味ではなく、エルフ特有の長く優雅であったろう耳が、数センチを残して切り落とされたように短くなっている。
「……この耳が気になるか?」
カブルーの視線に気付いたらしいミスルンは、そう問うた。トールマンであるカブルー自身は余り意識したことはないが、エルフには長い耳ほど美しいという価値観があるらしい。それでも、ミスルンはカブルーの無遠慮な視線に、怒るでも恥じいるでもない。
「気にはなりますが、あなたが話したくなる前に聞き出す気はないです」
「……ずいぶん気の長いやつだ」
ミスルンは、ほんの僅かに目を細めた、ような気がする。笑ったのかもしれない。
金曜日のヴィーナス
目覚まし時計がわりのスマートフォンが、電子音で起床時刻を教えている。半ば無意識に数度のスヌーズをかけたらしく、目覚めたカブルーが画面を見ると既にいつもより一時間は寝坊している。枕の横には一昨日ミスルンから渡された本が置いてあった。昨日はミスルンと話したあと、シャワーを浴び、コンビニで買ってきた簡単な食事をとって、布団にくるまりながら本を少し読んだらいつの間にか眠ってしまっていたようだ。
カブルーは慌ててスーツに袖を通し、カバンを掴んで部屋を飛び出した。ドアを閉めるときに思わず少し大きな音を立ててしまったが、気にする余裕はなかった。
共用廊下を足早に歩き始めた瞬間、カブルーはふと前方にミスルンの姿を見つけた。彼は淡い色合いのシャツに黒いパンツを合わせ、片手にはゴミ袋を持ってゆっくりと歩いている。
「おはようございます、ミスルンさん!」
声をかけると、ミスルンは振り返り、ほんの少し首を傾けた。
「おはよう」
いつもと同じ淡々とした声だったが、朝の光の中で見るミスルンの表情にはどこか柔らかさがあった。この人もゴミとか捨てるんだ、とカブルーは妙なところに好奇心にも似た感動を覚える。
「そうだ、明日、夜七時でどうですか。三十分前ぐらいに迎えに行くので」
「問題ない」
ミスルンは頷く。
土曜の夜は
夕方、カブルーはスーツケースから引っ張り出したシャツを身につけ、鏡の前で襟元を直していた。適当に詰めた荷物の中から、まともな服を探すのは一苦労だったが、気を引き締めたかった。
「これで大丈夫、だよな」
約束の時間に合わせて、隣のミスルンの部屋をノックした。
ミスルンがドアを開けた瞬間、カブルーは息を呑んだ。普段のリラックスしきった格好ではなく、仕立ての良いシャツに細身のパンツを合わせている。髪は相変わらず櫛を通しただけ、というような有様だったが、その不完全さが却って危ういバランスを作り上げ、近寄りがたい美しさが際立っていた。どこかのブランドの専属モデルだと言われたら信じてしまいそうだ。
「なんだ」
「いや、なんだか……その……」
「お前が不快なら、着替える」
淡々とした返答に、カブルーは軽く笑う。
「まさか! ちょっとびっくりしたんですよ。くたくたのスウェット姿しか知らないもので……似合っています。すごく」
街に出ると、土曜の夜の賑わいが広がっていた。人通りの多い繁華街を歩きながら、カブルーは目的の場所へと向かっていた。
カブルーがミスルンを連れ出したのは、古い洋館を改装したイタリアンレストランだった。看板には「笑い狼亭」とある。地元民によれば随分昔からある店らしく、かつては量の多さを売りにした大衆食堂だったが、オーナーが代替わりしたことで気取らないながらも洒落たレストランへと変わったとのことだ。ちなみにこれは同僚のハーフエルフからの入れ知恵である。白いレンガの外壁にはガス灯を模した明かりが取り付けられ、暖かな光を演出している。
ミスルンは店を見上げてから短く頷いた。
「悪くない」
店内は盛況だった。居酒屋ほどうるさくはないし、高級店ほど堅苦しくもない。テーブルとテーブルの間が広いのも気に入った。
料理を注文し、ワインが運ばれてくると、ようやくカブルーは一息ついた。
「ミスルンさんは、こういう所はよく来ます?」
ミスルンはグラスを軽く揺らしながら答えた。
「いいや。基本的に外食はしない」
「じゃあ、今日は特別ってことですね」
カブルーの明るい声に、ミスルンは一瞬目を伏せた。
「そうかもしれない」
料理が次々と運ばれてくる間、カブルーは積極的に話題を振った。仕事の話や最近気になっている本のこと、引っ越し先での生活など、次々と語る彼の様子を、ミスルンは静かに聞いていた。
「お前はどうして越してくることになったんだ?」
「ああ、それは……」
カブルーはやや躊躇いながらも、答える。その場しのぎの適当な理由を話すことは簡単だったが、彼に対してはそうしたくなかった。ただし大きな声で喧伝するような内容でもないから、詳細はぼかして。
「……実は、会社でちょっとした問題があって。なんと言うか、出世街道から外れたというか」
カブルーは言葉を慎重に選びながら話す。その顔に浮かぶ複雑な表情を、ミスルンはじっと見守っていた。
「自分が間違ったことをしたとは今でも思っていなないし、悔やんでるわけではないんですが」
少し苦笑いを浮かべて、カブルーは肩をすくめた。心の中で繰り返し考えてきたことだが、言葉にするとなんだか恥ずかしくなる。
「……訊くべきでないことを訊いてしまったようだ」
ミスルンはグラスを傾けながら呟く。彼の瞳はアルコールのせいでほんのりと潤み、いつもより感情があらわれているように見える。
「今はこれで良かったと思ってるんです。新しい友人も増えたし」
言いながらミスルンに微笑みかけると、ミスルンはカブルーの意図を解していないのか、それともわざと分からない振りをしているのか、小さく「それは良かった」と頷く。そして続けた。
「正しいと思うことを実行できる人間は、そう多くない。自分を誇るべきだ」
ミスルンのその言葉は、カブルーの心にじんわりと染み込んだ。カブルーは何も言わなかった。視界が滲んでいるのは羊肉のトマトシチューが熱すぎたせいだろう。きっと。
適正量を大幅に超えて摂取したアルコールが、カブルーの記憶を霞ませていた。足元はふらつき、都内ではついぞ見かけることのなかった見慣れぬローカルチェーンの居酒屋の看板もぼんやりと滲んで見える。
カブルーが働いているのは、名実ともに業界トップの企業だ。名門大学を卒業した彼は、就職活動の末にこの企業を選び、数年前、期待の新人として入社した。
しかし、入社からたった数年で、カブルーは自分が想像していた華やかなビジネスの世界とは異なる現実に次第に気づき始めた。
最初に違和感を抱いたのは、あるプロジェクトの帳簿を確認していたときだった。数字がどうも合わない。目に見えないところで、莫大な額がどこかに流れていることに気づいたのだ。
上司にそれとなく報告したものの、返ってきたのは「その辺りの数字は気にしなくていい」という淡々とした返事だった。疑問に思いながらも、部下としては上司の指示に従うのが常識だろうと、カブルーはひとまずその場を引き下がった。
しかし、それ以来カブルーに巣食った違和感が消えることはなかった。自発的に調査を進めるうちに、表向きのデータと内部のデータが一致していない部分が幾つも見つかったのだ。
担当する案件の規模が大きくなるにつれ、その違和感はますます大きくなり、やがて、会社の一部部署が不正な取引を通じて自社の利益を上乗せしているのではないかという推測へと変わっていった。
ある日、カブルーは意を決して、密かに社内のデータベースを調べることにした。不正の証拠と思しき資料から、自分の会社が複数の取引先と結託し、架空の請求を重ね、利益を横流ししているらしいことがわかった。しかも、その関係者の中には、会社の上層部や取引先の幹部らも含まれていた。
会社に入社した時の自分を振り返ると、彼はその理想の世界にいると信じて疑わなかった。しかし、目の前に広がる現実に向き合うと、その理想は薄っぺらい夢に過ぎなかったと痛感せざるを得なかった。
正義と誠実さだけで社会が回っていると思えるほど幼くはなかったから、カブルーは証拠を手にしても暫くは悩んだ。告発するか、見て見ぬふりをして自分のキャリアを守るか──。ただ、彼には一つだけ譲れない価値観があった。
どれだけ華やかな未来が待っていようと、嘘や欺瞞に塗れたものに背を向けて生きていきたくはなかった。会社の不正に対し、無力な平社員でも一矢を報いることができると信じ、カブルーは決断した。
匿名で外部の通報窓口に証拠を送り、内部告発を行った。少しでも自分の行動が社会のためになるなら、キャリアのリスクは取る価値があると考えた。だが、現実は甘くなかった。カブルーは映画の主人公などではなかったのだ。
告発からしばらくすると、彼の所属する部署に異動の話が持ち上がった。当初は上層部からの「期待を込めた転勤」だと言われたが、実態は閑職に追いやるための左遷だった。周りには「カブルーは異動先で新しいプロジェクトを任されることになった」と表向きの説明がされたが、その先で彼を待っていたのは、事務作業が中心で、会社の重要なポストからは完全に切り離された退屈な仕事だった。
告発者への対応は、表向きには「問題を調査中」だったが、実際にはカブルーのような告発者が出ないように、徹底的に排除されるシステムがすでに作り上げられていたのだった。
──と、そんなわけで、新天地での業務が明日から始まるというのにカブルーが酔いつぶれてしまったのは、昨日から続く引っ越しや手続きの諸々にかかるストレスに加えて、自己犠牲の末に失ったものへの虚しさが溢れ出したためだった。カブルーは決して蟒蛇というわけではないけれど、酒に飲まれるようなタイプでもない。
もとよりこの土地に長く居着くつもりもなく、私生活にも色々と無頓着なところのあるカブルーは、通勤の利便性だけを条件にしてアパートを選んだ。社宅という選択肢もあったが、カブルーがどういった経緯で転勤になったのかなど既に噂になっているだろうし、プライベートでも同僚と一緒というのは息苦しそうに思え、選ぶ気になれなかった。
築年数の経った木造建築の二階建てアパートは、住宅街の一角にひっそりと佇んでいる。駅から徒歩五分という好立地だが、車で入り込むにはドライビングテクニックを要するような、細く入り組んだ路地の先にある。
風雨に晒されて少し錆びた鉄製の外階段は、カブルーが階段を踏むたびにぎしぎしと音をたてた。
カブルーはふらつきながら自分の部屋の扉に辿り着いた。すっかり酔いが回り、足元がおぼつかない。ドアノブを引くと、なんの抵抗もなく開く。鍵を掛け忘れて出掛けてしまったのだろう。まあ、どうせ部屋の中には盗まれるようなものもないから、問題はないだろう。
靴を脱ぐのがやっとだ。部屋の明かりをつける気力もない。頭ががんがんと痛み始めている。
カブルーはついに限界に達した。玄関に倒れ込み、カブルーはすぐに寝息をたてはじめる──自分の腹筋の下あたりで、いかにも高そうなレザーシューズが潰れていることにさえ、気付かないままで。
月曜日雨のメロディー
カブルーは、柔らかな布の感触と、どこか懐かしい木の香りに包まれて目を覚ました。頭が重く、昨夜飲んだ酒のせいでぼんやりとしている。瞼を開けると、薄暗い天井と木製の梁が視界に入り、これが自分の部屋ではないことに不意に気付く。
「ここは……」
声に出しても、自分の声が掠れていて頼りない。記憶を辿ろうとしたが、酔っ払って玄関に入ったところから先がまるで霧の中だ。
体を起こして、部屋の中を見回す。とにかく物のない部屋だった。あるものといえばライティングデスクに、カブルーが今眠っているベッドぐらいのもので、あとは床に転がっている巨大な抱き枕ぐらいのものだ。
──と、床の抱き枕がのそのそと動き、ゆっくりと立ち上がる。どうやら抱き枕ではなく、毛布にくるまっていた人間だったらしい。ゆるくウェーブした長めの銀髪に端正な顔立ち。黒い瞳がこちらをじっと見ている。
カブルーが一瞬思ったことは二つだった。
一つ、通報されるかもしれない。
二つ、この相手と酔った勢いで同衾したのかもしれない。
「起きたか」
華奢な女性と言われたら信じてしまいそうな見た目の印象からはかけ離れた、低い声だった。どうやら酔いの勢いでやってしまった相手というわけではなさそうだ。
「昨日のことは覚えているか?」
淡々としていて、感情の起伏を感じさせない声だ。せめて怒りや困惑の感情が乗っている声であれば、カブルーもどう反応するべきか指針が立てやすかっただろう。 しかし、彼の雰囲気には苛立ちや不快感さえなく、ただありのままに、事実を確認するだけの声だった。
「あ、あの……すみません、俺、ここ……?」
カブルーは焦って状況を整理しようとしたが、声がうまく出ない。
男はゆっくりとカブルーの元へ歩み寄った。といっても、広い部屋ではないから、たった数歩移動したに過ぎない。近くなると、ますます彼の容姿が整っていることが分かる。年のころはカブルーと同じか、やや若いぐらいだろう。さっきは気付かなかったが、右目だけ瞼も開き切っておらず、焦点も合っていない。義眼のようだ。
「そこで倒れていたので中に入れておいた」
細い指が優美な仕草で玄関を指す。酔いが瞬時に吹き飛ぶ。自棄になってしたたか酔った挙句に、他人の部屋に不法侵入したうえ、三和土で行き倒れとなったらしい。さあっと血の気が引いていくのがわかる。
「本当にすみません! 俺、このアパートの二〇三号室に住んでいるカブルーといいます。昨日は酔っていて、それで、おそらく間違えてあなたの部屋に……」
カブルーは慌てて布団を跳ねのけ、立ち上がろうとするが、頭痛に足元がふらつく。男は肩を竦めてみせた。
「別にこちらは気にしていない。謝る必要はない」それから、ふと思い出したように付け足す。「二〇二号室のミスルンだ」
その声は感情を感じさせないが、不思議と冷たくもなかった。
「いや、でも……迷惑をかけたのは事実ですし、何かお礼をさせてください」
「不要だ」
ミスルンは平坦な声で断るが、カブルーは少し強引に続けた。
「俺が納得いかないんです。せめて、夕食でもご馳走させてください」
ミスルンは一瞬カブルーを見つめた。その義眼の無機質な視線が、不意にカブルーの胸をざわつかせる。
「……好きにしろ」
その言葉が同意なのか呆れなのかは判断がつかない。だが、カブルーはほっと胸を撫で下ろしながら微笑んだ。
「 どこかいい店を探しておきます。土曜日の夜は空いてますか?」
「ああ」ミスルンは諦めたようにそう応じて、続ける。「それより仕事はいいのか。今日は月曜だが」
はっとしてポケットの中からスマートフォンを取り出す。画面にひびが入っていなかった幸運に感謝しながら画面をタップすると、自分の部屋に戻って身支度を整えても勤務開始には間に合うような時刻が表示される。職場へのアクセスが楽なアパートを選んだのは、無意味ではなかったようだ。
自分の部屋に帰ったカブルーは、部屋の中を見渡した。殺風景な部屋に、いくつかのダンボール箱が積まれている。中途半端に開いたカーテンの隙間から射し込む光が、薄ぼんやりとした朝の空気を照らしている。
少しでもアルコールの気配を薄めるために、熱いシャワーを頭から浴びる。身支度をととのえ、ネクタイを締め、ジャケットを羽織る。磨き上げられた革靴を履いて、カブルーは部屋を出た。
明るいところで見ると、自分の部屋と、ミスルンの部屋のドアはかなり違っている。カブルーの部屋のドアはくすんだベージュに塗装され、経年劣化で所々ペンキが剥がれ、暗い朱色がわずかにのぞいている。何度も塗り直されているため、下の色が出てきてしまっているのだろう。扉の横には小さな釘が刺さっており、前の住人が使っていたであろう古びたプラスチック製のネームプレートがどうにかぶら下がっている。
一方のミスルンの部屋のドアは、グレーがかった落ち着いた色合いだ。ドアノブはカブルーのものと同じ材質だが、鍵穴の周りにほとんど汚れがない。扉の中央には郵便受けがあるが、蓋がしっかり閉じていて、あまり使われていないようだった。
電車に揺られながら、カブルーは窓の外をぼんやりと眺めた。都会の喧騒から離れたこの地方都市は、のんびりとした空気が漂っている。けれど、その穏やかさが今の自分には少し堪える。
「左遷ってわけじゃない、って言われてもな……」
上司は転勤を「期待の裏返し」と言ったが、実際のところは違うことぐらい、分かっている。若手ながら大規模なプロジェクトのサポートに抜擢され、手応えを感じていた矢先の異動だった。いらぬ正義感のために、プロジェクトから外され、地方の支社での勤務が決まったのだ。
「……じゃあ、どうしてこんな場所なんだよ」
小さく息を吐いて、窓に映る自分の姿を見つめる。どこか疲れた目をしている気がした。
社屋に着くと、建物の小ささに驚かされた。本社の洗練されたオフィスとは対照的に、地方支社の建物はどこか古びていて、外壁の一部には日焼けした跡が残っている。
オフィスには数十名の社員がそれぞれのデスクで仕事をしていた。誰もが長年ここで働いているベテランのように見える。新参者の若手が入る余地がどれほどあるのか。
しかし、そんなことで怖気付いても仕方ない。カブルーは努めて明るい声で挨拶をした。新天地で心機一転、張り切っている健気な若手社員という役を自らに課す。
支社への出勤初日である月曜日はあっという間に過ぎていった。仕事をするというよりは、挨拶まわりやら業務の引き継ぎやらデスク周りの整備やら事務上の手続きやらで一日が終わっていった。そうでなくとも、隣の部屋の住民に迷惑をかけ、強引にお礼を申し出た後であるから、動揺していて仕事に集中できていないのも確かではあるのだけれど。
それにしたって、本社に勤務していた頃とは比べ物にならないほどのんびりとしたペースだ。同僚どころか直属の上司でさえ、定時の三十分後には「お先に」と帰宅してしまっている。そんな中で残っていても仕方がないから、カブルーも初の支社勤務日を終えた。まだ夕方と言える時間に退勤するなんて、いつぶりだろう。
帰宅したカブルーはバスタブに浸かりながら、隣人のことを思い出す。
生活感のない男だった。大学生のようにも見えるし、老生した世捨て人のようにも思える。
この安アパートに見合わない手入れのされた家具はカブルーの目からしても高級品だったし、ミスルン自身の品のある面差しと、着古されてだるだるの服にもギャップがある。なんだか、あらゆることがちぐはぐな印象だった。
ジェントル・チューズデー
ミスルンという男は、どうにも掴みどころがない。冷たいわけではないが、どこか壁を感じる態度。だが、そんな壁を破るのがカブルーの得意技でもあった。
仕事を終えたカブルーが階段を上がると、ミスルンの部屋の前に立つ女性が目に入った。黒いジャケットにストライプのスカート、というかっちりとした装いに革製のショルダーバッグを斜め掛けしている。スマートフォンを手に、少し迷っている様子だった。
彼女は呼び鈴を何度か押しているようだったが、反応がないのか困惑した表情を浮かべていた。
「……どうかしましたか?」
カブルーは声をかけた。女性は振り返り、少し緊張した様子で答える。共有廊下の古びた蛍光灯が、ちらちらと彼女の高い鼻梁と、長く横に伸びた耳を照らす。後者はエルフの特徴だ。
「あ、あの……こちらのミスルンさんに用があって」
「留守ですかね。昨日は家にいましたけど」
その言葉を聞いて、女性は困ったように肩を落とし、耳を下げた。
「いつもこんな感じなんですよ。連絡手段もないから、心配で」
「そうなんですか。ええと、あなたはミスルンさんの……」
カブルーは少し興味をそそられた。この女性は、ミスルンとどういう関係なのだろうか。カブルーの疑問を正しく引き継いで、女性が名乗る。
「申し遅れました、パッタドルと申します。ミスルンさんとは仕事でお会いする予定なんです」
「パッタドルさん」
「ええ、美術キュレーターをしています。彼の作品をギャラリーで展示していて、少し相談があって伺いました」
「作品?」
「ええ、陶芸の……」
カブルーが首を傾げると、パッタドル女史は自分が喋り過ぎたことに気付いたようだった。はっとして、口元を手で押さえる。
「ええと、いえ、その……」
「差し支えなければ、もっと聞かせてもらえませんか?」
カブルーは大いに興味をそそられたが、さらに突っ込んで尋ねようとしたその瞬間、ミスルンの部屋のドアが静かに開いた。
「パッタドル。話をするなら、中で」
淡々とした声とともにミスルンが現れた。その姿を見たパッタドルは一瞬表情を引き締めてから、軽く会釈した。
「お邪魔します」
パッタドルが部屋に入ると、カブルーは思わずその場に立ち尽くした。彼女の、育ちが良さそうで真面目そうな雰囲気と、ミスルンの相変わらずの無表情な対応との対比が妙に印象に残った。
その夜、カブルーがシャワーを浴びていると、玄関のチャイムが鳴った。慌ててタオルを巻きつけたままドアを開けると、そこにはミスルンが立っていた。
「な、なんで……?」
「さきほどは、すまなかった」
ミスルンの問いに、カブルーは、ぽかんとする。そして、先ほどの女性を思い出す。
「パッタドルさんのことですか?」
「迷惑をかけたな」
「そんなことは……」
「それだけだ」
「あ、ちょっと待ってください!」カブルーは思わず声を上げた。「せっかく来たんですし、少し話でもどうですか?」
ミスルンは一瞬だけ考えるそぶりを見せたが、結局「遠慮しておく」と言い残し、淡々と去っていった。去り際に、カブルーに紙袋を渡してくる。礼を言う暇さえカブルーに与えることなく、ミスルンは自分の部屋へと戻っていった。
紙袋の中身を確かめると、中には、丁寧に包まれた缶入りの焼菓子が入っている。袋には小さなメモが貼ってあり、隣の部屋番号がサインのように書かれていた。
「……どういうこと?」
素っ気ない態度の割に、こういう気遣いがあるのはなんだか釣り合っていないような気がする。いや、意外と例のキュレーターからの差し入れを持て余し、隣人に押し付けているだけかもしれない。
カブルーのプライベートルームに便箋などという洒落たものはないから、付箋に礼の言葉をしたためて、ミスルンの部屋の扉についたポストに放り込んだ。
How do you like Wednesday?
水曜日の朝、カブルーは会社での仕事に追われていた。転勤先ではまだ人間関係が浅く、業務の全貌を掴むのにも時間がかかる。昼休みに差し掛かる頃、ようやく少し息をつけたカブルーはスマートフォンを取り出し、レストランの詳細を確認した。
「雰囲気もいいし、きっと気に入ってもらえるとは思うけど……」
すでにミスルンは月曜日の時点で「お前が選んだ場所でいい」と了承していたものの、どこか自信が持てない。なにせ、相手はギャラリーに作品が展示されているような陶芸家だ。美意識だって十人並みではあるまい。
信じられないことに、絶対逃せない商談の接待に使う店を予約したときよりも、初めてのデートの行き先を決めたときよりも、ミスルンのために店を選んでいる今のほうが緊張している。そのことが、なんだか擽ったい。
カブルーが帰宅する頃には、街を覆う夕焼けが徐々に深い藍へと色を変じさせてた。アパートがある通りに車の往来は少なく、狭い道路に沿って立つ街灯がぽつぽつと点灯する。薄暗く、頼りない光だ。
アパート自体は築四十年近い、いわゆる「古びた」建物だ。外壁は、建てられたばかりの頃はクリーム色だったのだろうが、長年の風雨に晒されて少し黒ずんでいる。
カブルーはコンビニの袋をぶら下げた手をポケットに入れたまま、自分の部屋の前に辿り着いた。鍵を取り出しながら隣の部屋に目をやると、彼の部屋の窓から漏れる明かりが見える。
鍵を開け、自宅に帰ってきたカブルーは雑に手洗いとうがいをすませ、ビニール袋の中身を電子レンジにかける。今のところカブルーの部屋にある唯一の家電であり、実質的なカブルーの生命線でもある。
過保護な養母は、「カブルーは可愛いから、変な人に襲われたりしたら大変だよ」などと言ってカブルーがまだ幼い頃から護身術などまで教えてくれたが、反面、炊事や洗濯といった家事については清々しいほどノータッチだった。養母自身、裕福な家に育ったためか、そういった家事はハウスキーパーに任せればいいとでも思っているふしがある。
したがってカブルーの家事スキルは彼が一人暮らしを始めた頃がレベル一であり、なお残念なことにその頃から何かと世話を焼いてくれるタイプの男女に事欠かなかったため、家事の技能はレベルアップすることなく今に至っている。
トマトソースのペンネはコンビニの新作商品らしい。美味しいに越したことはないが、食に対しては特に強いこだわりもないカブルーは大した感慨もなく平げた。
プラスチックの皿とフォークを、カブルーがゴミ箱に捨てるのと同時に、来客を告げるチャイムが鳴る。
「カブルー」
少し低いところから、黒い瞳がカブルーを見つめている。
「ミスルンさん、こんばんは。昨日はありがとうございました」
「口に合ったなら、いい」
ミスルンは短く言い、古びた本を差し出す。
「これは……?」
「陶芸に興味があるのだろう?」
ミスルンはそれだけ言うと、足早に部屋へ戻っていった。昨晩のパッタドルとカブルーのやりとりを、ミスルンはそう解釈したらしい。実際には、カブルーが興味をもっているのは陶芸というよりも、ミスルンその人についてなのだが。
カブルーが口にした些細なことを覚えていたことは驚きだったが、ミルスンがわざわざ何かを選んで渡してくれたことは純粋に嬉しい。たとえ、彼の解釈がカブルーの意図したところとは少々ずれていたとしても、だ。
その本は、どうやらミスルン自身が大事にしていたもののようだった。年季が入ってはいるが、ページの破れはなく、本の角にも折れがない。そう思うと、カブルーの手の中にある一冊の本は、ミスルンという人物のことを知るためのヒントのようにも思える。
カブルーは夕食を軽く済ませ、ソファに横たわった。いつもならテレビを流し見するのだが、今日は隣の部屋が妙に気になって仕方がない。
月曜日から会話らしい会話はしていないのに、どこか気になっている自分がいる。隣人との夕食なんて、普通はこんなに気を遣うものだろうか、と自問自答する。
「気にしすぎだな……」
自分に言い聞かせるように呟くと、そのまま本を手に取った。先ほどミスルンから借りた本だ。自分には到底理解できないような専門的な技術書だったらどうしようと思ったが、予想に反してそれは陶芸を通じて自然や人間の精神に向き合う、哲学的なエッセーだった。静かでどこか寂しげな文章が、カブルーの心に染み込んでいく。
人間と土。自然と人との交点。窯を開いてみるまで作品の出来は誰にも分からない。そういった内容が、筆者の視点から書かれている。
──器に残る歪みやひび割れは、失敗ではなく、その器だけが持つ個性だ。完璧ではないものに宿る美は、我々自身の不完全さを許す寛容の精神を教えてくれる。
本の中の一節が、カブルーの目を惹いた。その数行を何度も視線で往復する。
「失敗が個性……か」
カブルーは自嘲気味に笑う。自分の左遷も、果たして「個性」として捉えられるだろうか。考え込む彼をよそに、部屋の隅には洗いそびれたコーヒーカップが置きっぱなしだ。
優しい木曜日
カブルーは部屋で一息ついていた。仕事での疲れが残るものの、週末にミスルンと夕飯に行く約束を思い出すと、気分が少し明るくなる。
変わった人であることに間違いはないけれど、悪人とは思えない。むしろ、淡白な態度の奥に滲む柔らかさに気付かされつつある。
そういえば、そもそもミスルンは普段どんな生活を送っているのだろうか。食事の約束をした時から、彼に対する興味が増している自分に気づいていた。あの無表情で何を考えているのかわからない態度。その奥に隠れているものを知りたくて仕方ない自分がいる。
なんだか、無性に体を動かしたくなった。部屋の片隅に置いていたランニングシューズを取り出し、紐をしっかりと結ぶ。ジョギングはいい。考えながらでもできるし、好きな時間にできる。
「よし、行くか」
ドアを閉めると、ひんやりとした夜の空気が彼の頬に触れた。住宅街の静けさが広がり、遠くで犬の吠える声がかすかに聞こえる。カブルーは軽くストレッチをしてからアパートの階段を降り、走り出した。
道は狭く、街灯の光が薄暗い。住宅街を抜けると、近くの公園が見えてくる。夜遅いせいか、人影はほとんどなかった。ここまで静かだと、却って落ち着かない気分になる。
息が上がり始めた頃、公園の入り口付近でゆっくりと歩いている人影を見つけた。カブルーはその姿に見覚えがあることに気づき、スピードを緩める。
「……ミスルンさん?」
声をかけると、月明かりの下でその人物が振り返った。間違いなく、隣の部屋に住むミスルンだった。相変わらずの無表情で、目元に薄い影を落としたその顔はどこか神秘的な雰囲気をまとっている。
「カブルーか」
ミスルンは淡々と応じた。それ以上言葉を足すこともなく、また歩き出そうとする。
「こんな時間に散歩ですか?」
カブルーは横に並ぶようにして歩きながら話しかけた。
「お前こそ、夜に走るなんて意外だな」
ミスルンの声は相変わらず落ち着いていて、どこか冷ややかな響きがある。
「俺は仕事もデスクワークですから、たまには汗をかかないと、と思いまして」
カブルーは笑いながら答えたが、ミスルンの反応は特にない。それでも二人はしばらく無言で並んで歩き続けた。
公園のベンチの前でミスルンが足を止めた。月明かりに照らされた木製のベンチは昼間とは違い、闇に溶け込んで気配を消しているかのようだ。
「いつもこんな時間に散歩を?」
カブルーが尋ねると、ベンチに腰を下ろしながらミスルンは頷く。
「ああ」
ミスルンは肩をすくめただけで、それ以上は何も言わない。その無表情の奥にどんな感情が隠れているのか、カブルーにはまだわからなかったが、不思議とその沈黙が心地よく感じられた。
「そうだ、ミスルンさん。連絡先とか交換しません?」
「? 隣の部屋だろう」
「そうですけど、ほら、電話番号とか」
「電話はない」
「家電じゃなくて。ラインとかインスタとか。他にやってるSNSがあれば、こっちが合わせますよ」
ミスルンは、きょとんとしている。それから首を横に振った。カブルーを揶揄っているようにも、教えたくないから嘘をついているようにも見えない。思い返してみれば、パッタドルも「連絡をとる手段がない」とか言っていた。どうやら本当にスマホすら持っていないようだ。
「では、何か話したいことがあったらミスルンさんの家に行ってもいいですか?」
「私と? 面白い話はできないと思うが」
「そんなことないですよ。たとえば、普段はどんな風に過ごしてるんです?」
「特に何も。知っての通り、器を作ったり蕎麦を打ったり、気楽なものだ」
「どこかに工房があったりするんですか?」
「焼成には少し離れた共同の薪窯を使っているが、それ以外の作業には隣の部屋を使っている」
ミスルンは答えながら、足元の小石に気を取られたように視線を落とした。銀色の髪がふわりと揺れて、髪に隠されていた耳が一瞬だけのぞく。カブルーは目を疑った。
耳が短い。トールマンのように丸い耳であるという意味ではなく、エルフ特有の長く優雅であったろう耳が、数センチを残して切り落とされたように短くなっている。
「……この耳が気になるか?」
カブルーの視線に気付いたらしいミスルンは、そう問うた。トールマンであるカブルー自身は余り意識したことはないが、エルフには長い耳ほど美しいという価値観があるらしい。それでも、ミスルンはカブルーの無遠慮な視線に、怒るでも恥じいるでもない。
「気にはなりますが、あなたが話したくなる前に聞き出す気はないです」
「……ずいぶん気の長いやつだ」
ミスルンは、ほんの僅かに目を細めた、ような気がする。笑ったのかもしれない。
金曜日のヴィーナス
目覚まし時計がわりのスマートフォンが、電子音で起床時刻を教えている。半ば無意識に数度のスヌーズをかけたらしく、目覚めたカブルーが画面を見ると既にいつもより一時間は寝坊している。枕の横には一昨日ミスルンから渡された本が置いてあった。昨日はミスルンと話したあと、シャワーを浴び、コンビニで買ってきた簡単な食事をとって、布団にくるまりながら本を少し読んだらいつの間にか眠ってしまっていたようだ。
カブルーは慌ててスーツに袖を通し、カバンを掴んで部屋を飛び出した。ドアを閉めるときに思わず少し大きな音を立ててしまったが、気にする余裕はなかった。
共用廊下を足早に歩き始めた瞬間、カブルーはふと前方にミスルンの姿を見つけた。彼は淡い色合いのシャツに黒いパンツを合わせ、片手にはゴミ袋を持ってゆっくりと歩いている。
「おはようございます、ミスルンさん!」
声をかけると、ミスルンは振り返り、ほんの少し首を傾けた。
「おはよう」
いつもと同じ淡々とした声だったが、朝の光の中で見るミスルンの表情にはどこか柔らかさがあった。この人もゴミとか捨てるんだ、とカブルーは妙なところに好奇心にも似た感動を覚える。
「そうだ、明日、夜七時でどうですか。三十分前ぐらいに迎えに行くので」
「問題ない」
ミスルンは頷く。
土曜の夜は
夕方、カブルーはスーツケースから引っ張り出したシャツを身につけ、鏡の前で襟元を直していた。適当に詰めた荷物の中から、まともな服を探すのは一苦労だったが、気を引き締めたかった。
「これで大丈夫、だよな」
約束の時間に合わせて、隣のミスルンの部屋をノックした。
ミスルンがドアを開けた瞬間、カブルーは息を呑んだ。普段のリラックスしきった格好ではなく、仕立ての良いシャツに細身のパンツを合わせている。髪は相変わらず櫛を通しただけ、というような有様だったが、その不完全さが却って危ういバランスを作り上げ、近寄りがたい美しさが際立っていた。どこかのブランドの専属モデルだと言われたら信じてしまいそうだ。
「なんだ」
「いや、なんだか……その……」
「お前が不快なら、着替える」
淡々とした返答に、カブルーは軽く笑う。
「まさか! ちょっとびっくりしたんですよ。くたくたのスウェット姿しか知らないもので……似合っています。すごく」
街に出ると、土曜の夜の賑わいが広がっていた。人通りの多い繁華街を歩きながら、カブルーは目的の場所へと向かっていた。
カブルーがミスルンを連れ出したのは、古い洋館を改装したイタリアンレストランだった。看板には「笑い狼亭」とある。地元民によれば随分昔からある店らしく、かつては量の多さを売りにした大衆食堂だったが、オーナーが代替わりしたことで気取らないながらも洒落たレストランへと変わったとのことだ。ちなみにこれは同僚のハーフエルフからの入れ知恵である。白いレンガの外壁にはガス灯を模した明かりが取り付けられ、暖かな光を演出している。
ミスルンは店を見上げてから短く頷いた。
「悪くない」
店内は盛況だった。居酒屋ほどうるさくはないし、高級店ほど堅苦しくもない。テーブルとテーブルの間が広いのも気に入った。
料理を注文し、ワインが運ばれてくると、ようやくカブルーは一息ついた。
「ミスルンさんは、こういう所はよく来ます?」
ミスルンはグラスを軽く揺らしながら答えた。
「いいや。基本的に外食はしない」
「じゃあ、今日は特別ってことですね」
カブルーの明るい声に、ミスルンは一瞬目を伏せた。
「そうかもしれない」
料理が次々と運ばれてくる間、カブルーは積極的に話題を振った。仕事の話や最近気になっている本のこと、引っ越し先での生活など、次々と語る彼の様子を、ミスルンは静かに聞いていた。
「お前はどうして越してくることになったんだ?」
「ああ、それは……」
カブルーはやや躊躇いながらも、答える。その場しのぎの適当な理由を話すことは簡単だったが、彼に対してはそうしたくなかった。ただし大きな声で喧伝するような内容でもないから、詳細はぼかして。
「……実は、会社でちょっとした問題があって。なんと言うか、出世街道から外れたというか」
カブルーは言葉を慎重に選びながら話す。その顔に浮かぶ複雑な表情を、ミスルンはじっと見守っていた。
「自分が間違ったことをしたとは今でも思っていなないし、悔やんでるわけではないんですが」
少し苦笑いを浮かべて、カブルーは肩をすくめた。心の中で繰り返し考えてきたことだが、言葉にするとなんだか恥ずかしくなる。
「……訊くべきでないことを訊いてしまったようだ」
ミスルンはグラスを傾けながら呟く。彼の瞳はアルコールのせいでほんのりと潤み、いつもより感情があらわれているように見える。
「今はこれで良かったと思ってるんです。新しい友人も増えたし」
言いながらミスルンに微笑みかけると、ミスルンはカブルーの意図を解していないのか、それともわざと分からない振りをしているのか、小さく「それは良かった」と頷く。そして続けた。
「正しいと思うことを実行できる人間は、そう多くない。自分を誇るべきだ」
ミスルンのその言葉は、カブルーの心にじんわりと染み込んだ。カブルーは何も言わなかった。視界が滲んでいるのは羊肉のトマトシチューが熱すぎたせいだろう。きっと。
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