汀まで
もし、お兄さん。
町の喧噪からやや離れた四辻でそう声を掛けられて僕は足を止めた。振り向くと、辻占がこちらに向かって手招きをしている。年の頃は不惑に差し掛かった頃だろうか。眉が離れた顔の輪郭は丸い。どことなく狸を思わせる面つきには人を油断させる愛嬌があった。
「浮かぬ顔をしておられる」
はあ、と曖昧な返事をしたのは、特別の心当たりがなかったからだ。
不安や悩みが皆無――とはまではいかないが、少なくとも表情に出すほどのものはない。男は僕の態度に気を悪くした様子も見せず、じいっと僕の顔を数秒かけて観察したのち、心得顔で何度も頷いた。
「なるほどなるほど、恋の悩みですな」
「そう見えますか」
「そりゃあ、もう。顔に出ておりますよ。占料は結構、少しばかりお話を聞かせていただいても?」
にんまりと唇の端を全くの左右対称につり上げた辻占は、自身の輪郭を囲むように、ぐるりと空中に円を描いた。恋の悩み、と言われれば、確かに思い当たることがないでもない。普段なら隣にいる相手の顔──といっても、彼は僕の顔を模した面を被っているのだけれど──が脳裏を過る。
思いを通わせてからも、僕と三郎は非常に清い関係を築いていた。肩を並べ、言葉を交わし、信頼を分かち合い──要するに、同室であった頃とそう変わりない。変化といえば、二人きりで部屋にいる時に、なんとなく緊張してしまうぐらいだ。
僕が三郎のことを好きなのは言うまでもなく、三郎が僕のことを好いてくれているのは承知している。そして、その恋愛感情というものが、降って湧いたものではなく、今まで積み重ねてきた友情や信頼に根ざしたものであることも。恋人でいるよりも長い時間、友人でいたのだ。自然と慣れ親しんだ同室の親友としての距離感から、恋人へと急に方向転換するのは気恥ずかしさが残る。
だから、三郎との今の距離感が嫌というわけではないけれど、彼も健全な男性なのだから、恋人と一緒にいるのなら普通は触れたくなったりするものではないのか、という疑念が鎌首を擡げてくるのも事実である。誤解を恐れずに言うなら、口では甘ったるく愛を囁いてみせるくせに、口吸いひとつしようとはしない三郎に少しばかり不安になっているところだったのだ。
「片恋? 恋人と喧嘩でも? はたまた道ならぬ恋にお悩みか?」
「いや、そういうわけでは……」
僕が否定しないでいるのを見て、図星をついてやったと思ったのだろう、男は妙に馴れ馴れしく距離を縮めてきた。立ち話なら、時間もそう長くはかかるまい。純粋な好奇心に加え、予定より早く用事が終わって時間を持て余し気味ということもあって、僕はその人相見に付き合うことに決めた。
「と、言いますと」
「……恋人との仲が進展しなくて……」
さすがに肉体関係がないことが悩みである、と直接言葉にすることは憚られ、極力ぼかして伝えたつもりだったが、男は過たず僕の意図するところを理解したらしかった。
「お相手はどのような方ですか」
「優しくて、茶目っ気があって、憎めない子というか……」
「見目は?」
まさか、自分と瓜二つであるとは言えない。そもそも、こういう場合って三郎の素顔について話すべきだろうか、それとも彼が殆どの時間を過ごしている方──要するに僕の──顔について伝えるべきだろうか。明らかに言い淀んだ僕に、目の前の男は好意的な苦笑を浮かべた。
「とまれかくまれ、川霧もいつか晴れましょう──尤も、ここは宇治ではありませんがね」
「見えるのが網代木ばかりでは困るなぁ」
「なに、彼も同じように思っていますよ」
では、とにこやかに立ち去ろうとする男の襟に手を伸ばしてぐい、と引っ張る。振り向いた顔に驚きよりも会心の成分が多く含まれていることに、疑念は確信へ変わった。
「満足したか、三郎」
するりと顔を撫でただけで辻占の装いを瞬時に解いた三郎は、意外そうに眉の角度を鋭にしてみせた。
「なんだ、気付いていたのか」
「男の恋占いで、どうして相手が『彼』って分かるんだよ」
「雷蔵が俺の事を恋人と言ってくれるのが嬉しくて、つい舞い上がってしまった」
三郎は、ごくごく自然な振る舞いで僕の手を取った。三郎の指は彼自身の性状と同様に、すらりとして無駄のない造形をしている。厚みのない掌に、長い指。
見ただけでは分からないけれど、触れると僅かに肉の盛り上がった部分があるのは、得物である鏢刀を未だ使いこなせなかった頃の古傷だ。
並んだ三日月のような武器を彼自身の体の一部のように操ることのできる今となっては信じ難いことだが、彼がその技術を文字通り血の滲む努力の末に獲得したことを、僕は知っていた。
三郎の親指がいたずらをするように、僕の指の背を撫でる。擽ったい。
「三郎は、どうしてここへ?」
「迎えに来たんだよ」
この男が、特に居場所を伝えた覚えもないのに、僕が向かう所へしれっと現れるのは何も今日に限ったことではない。だから、説明もそれで充分だった。三郎は慎重に言葉を選ぶようにして、口を開いた。
「その、今夜……隣は委員会の用事だかで留守らしい」
「へえ。それじゃあ今日は遅くまで話し込んでも大丈夫だね」
「じゃなくて!」
三郎は自身を鼓舞するように大きな声を出し、それから急に声をひそめた。
「……さっきの。君の不安を、解消したい」
町の喧噪からやや離れた四辻でそう声を掛けられて僕は足を止めた。振り向くと、辻占がこちらに向かって手招きをしている。年の頃は不惑に差し掛かった頃だろうか。眉が離れた顔の輪郭は丸い。どことなく狸を思わせる面つきには人を油断させる愛嬌があった。
「浮かぬ顔をしておられる」
はあ、と曖昧な返事をしたのは、特別の心当たりがなかったからだ。
不安や悩みが皆無――とはまではいかないが、少なくとも表情に出すほどのものはない。男は僕の態度に気を悪くした様子も見せず、じいっと僕の顔を数秒かけて観察したのち、心得顔で何度も頷いた。
「なるほどなるほど、恋の悩みですな」
「そう見えますか」
「そりゃあ、もう。顔に出ておりますよ。占料は結構、少しばかりお話を聞かせていただいても?」
にんまりと唇の端を全くの左右対称につり上げた辻占は、自身の輪郭を囲むように、ぐるりと空中に円を描いた。恋の悩み、と言われれば、確かに思い当たることがないでもない。普段なら隣にいる相手の顔──といっても、彼は僕の顔を模した面を被っているのだけれど──が脳裏を過る。
思いを通わせてからも、僕と三郎は非常に清い関係を築いていた。肩を並べ、言葉を交わし、信頼を分かち合い──要するに、同室であった頃とそう変わりない。変化といえば、二人きりで部屋にいる時に、なんとなく緊張してしまうぐらいだ。
僕が三郎のことを好きなのは言うまでもなく、三郎が僕のことを好いてくれているのは承知している。そして、その恋愛感情というものが、降って湧いたものではなく、今まで積み重ねてきた友情や信頼に根ざしたものであることも。恋人でいるよりも長い時間、友人でいたのだ。自然と慣れ親しんだ同室の親友としての距離感から、恋人へと急に方向転換するのは気恥ずかしさが残る。
だから、三郎との今の距離感が嫌というわけではないけれど、彼も健全な男性なのだから、恋人と一緒にいるのなら普通は触れたくなったりするものではないのか、という疑念が鎌首を擡げてくるのも事実である。誤解を恐れずに言うなら、口では甘ったるく愛を囁いてみせるくせに、口吸いひとつしようとはしない三郎に少しばかり不安になっているところだったのだ。
「片恋? 恋人と喧嘩でも? はたまた道ならぬ恋にお悩みか?」
「いや、そういうわけでは……」
僕が否定しないでいるのを見て、図星をついてやったと思ったのだろう、男は妙に馴れ馴れしく距離を縮めてきた。立ち話なら、時間もそう長くはかかるまい。純粋な好奇心に加え、予定より早く用事が終わって時間を持て余し気味ということもあって、僕はその人相見に付き合うことに決めた。
「と、言いますと」
「……恋人との仲が進展しなくて……」
さすがに肉体関係がないことが悩みである、と直接言葉にすることは憚られ、極力ぼかして伝えたつもりだったが、男は過たず僕の意図するところを理解したらしかった。
「お相手はどのような方ですか」
「優しくて、茶目っ気があって、憎めない子というか……」
「見目は?」
まさか、自分と瓜二つであるとは言えない。そもそも、こういう場合って三郎の素顔について話すべきだろうか、それとも彼が殆どの時間を過ごしている方──要するに僕の──顔について伝えるべきだろうか。明らかに言い淀んだ僕に、目の前の男は好意的な苦笑を浮かべた。
「とまれかくまれ、川霧もいつか晴れましょう──尤も、ここは宇治ではありませんがね」
「見えるのが網代木ばかりでは困るなぁ」
「なに、彼も同じように思っていますよ」
では、とにこやかに立ち去ろうとする男の襟に手を伸ばしてぐい、と引っ張る。振り向いた顔に驚きよりも会心の成分が多く含まれていることに、疑念は確信へ変わった。
「満足したか、三郎」
するりと顔を撫でただけで辻占の装いを瞬時に解いた三郎は、意外そうに眉の角度を鋭にしてみせた。
「なんだ、気付いていたのか」
「男の恋占いで、どうして相手が『彼』って分かるんだよ」
「雷蔵が俺の事を恋人と言ってくれるのが嬉しくて、つい舞い上がってしまった」
三郎は、ごくごく自然な振る舞いで僕の手を取った。三郎の指は彼自身の性状と同様に、すらりとして無駄のない造形をしている。厚みのない掌に、長い指。
見ただけでは分からないけれど、触れると僅かに肉の盛り上がった部分があるのは、得物である鏢刀を未だ使いこなせなかった頃の古傷だ。
並んだ三日月のような武器を彼自身の体の一部のように操ることのできる今となっては信じ難いことだが、彼がその技術を文字通り血の滲む努力の末に獲得したことを、僕は知っていた。
三郎の親指がいたずらをするように、僕の指の背を撫でる。擽ったい。
「三郎は、どうしてここへ?」
「迎えに来たんだよ」
この男が、特に居場所を伝えた覚えもないのに、僕が向かう所へしれっと現れるのは何も今日に限ったことではない。だから、説明もそれで充分だった。三郎は慎重に言葉を選ぶようにして、口を開いた。
「その、今夜……隣は委員会の用事だかで留守らしい」
「へえ。それじゃあ今日は遅くまで話し込んでも大丈夫だね」
「じゃなくて!」
三郎は自身を鼓舞するように大きな声を出し、それから急に声をひそめた。
「……さっきの。君の不安を、解消したい」
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